[PR] ペット販売 正義の看護学/悪の看護学/私の看護観 | ある“遅咲き”男の看護学
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正義の看護学/悪の看護学/私の看護観
ちょっとメモ的に気になったことを記します。

看護学が実践の科学だという言い方をされるのは、もうデフォルトでしょう。つまり看護学のキーワードは「実践」と「科学」です。これらの用語の意味をめぐって、人それぞれの意見があるんです。とりあえず「実践」と「科学」の二元論は、当事者の間でも反論がないと思います。

私はこれまで看護学の科学性について、かなり疑問をもってました。議論したり自分なりに考えてきました。科学的看護学なんかありえるかな?と思ってきた。科学だったら医学でいいし、と思ってきました。EBMでさえ受け入れられにくいのに、EBNなんか現場にいない半端な人が言うだけじゃないの?、と思ってきました。
この考えは今でも、以前ほど過激ではなくなってますが、ぜんぜん解消されてません。現実の看護教育実践に巻き込まれて考察するほどに、この教育は、たんなる看護技術を、難しそうに難しそうに、理解されにくいように表現してるだけだと感じます。看護学生の現役の子たちなんか、まだ年端もいかないのに、難しいこと言われて可哀想な気すらします。教養課程もないのに、難しいこと言われても分からないでしょう。

しかも教え方の技術向上実践がないから、年を追ってレベルが下がるのも当たり前です。

そこで今年の夏、ふと思ったのは、看護の実践の部分はどうなのよ?ということでした。私はこれまで、看護学の学問の部分ばかりを見てきた。実践の部分は、自分とは関係ないと思ってきたのです。だって自分はおじさんですから、この年齢で看護師になっても、現場の仕事なんか回ってこないだろう、と思ってました。でもそれは間違った思い込みのようです。仕事は年齢に付くんじゃなくて、人に付くんですね。だから、現場の仕事が回ってくるかどうかは、私自身の考え方次第だってことですね。

話が飛びました。

さて、実践とは、要するに看護実践だと、これまで素朴に思ってきた私です。看護師がプロとしてする実践だから、看護技術イコール看護実践だろうな、と素朴に考えてきました。その考え方は、法律とか責任問題を議論するときは、たぶん間違ってないと思います。でもそれでは看護学の深いところには届かないな、と考えるようになりました。

看護技術だったら、学校でかなりのエネルギーを割いて教えてる、アレが看護技術ですよ。アレに一番エネルギーを割いて、アレを一生懸命やれば、看護技術は身に付くのか。そう考えると、ぜんぜんダメでしょうね。学校で習う基礎看護技術というのは、ただテストに受かるためだけの技術ですよ。この考え方の根拠を口で説明するのは難しいですが。でもよくある言い方を利用するなら、「基礎がなかったらプロになれないけど、基礎だけ持って実践に出られない」ってことでしょう。

つまり、基礎看護技術を要らないとは思わない。でも基礎看護技術の教え方は後々にすごく影響するし、教える環境とか、どんな人が教えるかによって、技術が台無しになったり逆効果になることがある。技術そのものは中立のはずなのに。言われてみれば当たり前かも知れませんが、技術そのものは中立だけど、教える文脈によっては中立じゃなくなるってことですよ。

じゃあ、教える価値を決めるのは何か?というと、それは学校そのものです。学校そのものが、全体としての価値観を持っているかどうか、ということです。価値観ですよ。価値観。価値観なんて、普通の日本人は持てませんよ。でも看護教育に関しては、価値観が必要です。学校が価値観を持っていて、教員も価値観を持っていることが必要です。

これは教員に確かめてみる必要があると思いました。教員は何気なく学生に向かって「どうしたいのよ?」と聞きます。それに対して、うまく答えられずにうつむく学生は多いのです。私はうつむかないでしょう。そんなこと聞いてくるやつには、聞かれる前に「お前の価値観を話せ」「学校の価値観を話せ」と問わねばならない。それが遠回りなら、もうちょっとニコかに「どうさせたいのよ?」と問う必要があります。

・・・と、ここまで読み返してみると、ぜんぜんたいした話じゃないですね。

でも、なんでこういうことを真剣に考えるようになったかというと、やっぱりパソコン室や看護学科棟のマナーについて、学校の言うこととすることが一致しないと強く思うからです。学生の個人情報の扱いについても、学校は言行不一致です。そればかりか、教員はこの二重基準に強く抗議してもいない。

強く抗議していないにも関わらず、私には「強く抗議している」という教員がいた。それも複数いた。「ならばその記録があるはずだから開示してください」と言えば、言葉を濁す。要するにこの教員達は教育に命をかけてないですね。利益をかけているだけです。仕事としてやってるだけだ。生き方じゃない。真偽の世界に生きず、損得の世界に生きているだけです。

教育に関して言えば、こんな教員の言うことがに、重みはないのですよ。

最初のテーマに戻りますが、看護には二つのキーワードがあります。実践と科学です。これは要するに、半分は勉強で、もう半分は実際にやってみること、ということです。私はそう理解した。看護学は勉強だけではダメで、実際にやってるだけでもダメなんですよ。だから両方が中途半端になる危険を覚悟しながら、精一杯の力で両方ともやってみる。これが看護学の意味じゃないですかね。

だから修士号で満足してる看護教員なんか基本的にダメだし、年に1本も論文をかけない看護師も高度専門職としてはダメだし、臨床兼務が無理なら、せめて隔週末の病院バイトかボランティアすらやろうとしない看護師は教育者としてダメなんです。そもそも、学生の個人情報を守るよう学校を説得できないのに、学生には被験者の個人情報を守れなどと、部分だけを取れば正しいように見えて、全体で見れば馬鹿馬鹿しいほど矛盾した行動を集団で取る看護教員はダメダメです。

ただ、私がいいたいのは、今の看護教員を皆殺しにしろってことじゃないんです。そういう看護師は、決して悪じゃないんです。自分の力量の範囲内で仕事をするのは悪ではない。そんな看護師が、後輩に理屈で教える立場になるのが悪だというだけです。そういう看護師は、看護師の中の準看護師みたいな位置で満足すればいいだけです。看護師の機能は全員均等というのではなくて、むしろ階層的に細分化されてるのですから。昔風に言うと、分相応があるんですよ。カーストと言ったら分かりやすいけど差別みたいですね。でも差別じゃない。そこを理屈で詰めないと。でも驚いたことに、看護学はその大事なところを理論化してない。政治解決しかしてない。

それが私の看護観ですね。今年の夏、私はそう悟った。悟ったと言っても、内容的には全体の一章に過ぎないですけど。しかも序章です。でもこれが正義の看護学の研究につながると強く思います。それを看護倫理学と呼ぶか、看護哲学と呼ぶか、看護宗教学と呼ぶか、よく分かりません。看護倫理学なんかあるかどうか知りませんが、なかったら自分で作るでしょうね。
| - | 17:56comments(3)trackbacks(0)
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| - | 17:56 | - | - |
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自己レスです。

自分が1年前に書いた記事を読み直して、改めて看護教員の二重基準を思います。看護技術を学生に教えるときはエビデンスに厳しいが、自分自身の行動規範がエビデンスに基づいていない。つまり、学生に厳しく自分に甘い看護教員がいて、学生が迷惑しているということです。
| woaini | 2006/12/02 9:12 AM |

ふじこさん、はじめまして。
わざわざごあいさついただき恐縮です。
よろしくお願いいたします。
こちらもリンクさせていただきます。

ご指摘の通り、看護学は臨床なしでは成り立ちませんもんね。でも私としては、病院とか医療関係だけが臨床とは思ってないんですよ。看護教育の中でも、看護学教員や看護学生の間に成り立つ看護臨床はあると強く思うのです。でも多くの看護教員はそれを実践しません。現場の看護師も実践しません。患者への態度と看護学生の態度が100%違う看護師ばかりです。瞬間的に態度を豹変する看護師は、正直言って気持ち悪いですよ。
| woaini | 2005/08/11 9:31 PM |

はじめまして、大学教員の日常・非日常さん経由で来ました。

興味ある内容の数々・・・臨床の場にいない看護学研究なんてないというのにとっても共感しております。・・・門外漢ながら思っております。

リンクさせてください。もし問題ありましたら、コメントしてください(外しますので)。
ふじこ | 2005/08/11 9:04 PM |








※適当に改行入れてくださいませ(特に半角文字使用の場合)


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